平和への進行と世襲の匂い

信長や光秀やねねの知恵のもと
秀吉は朝廷の位を得るに至りました

これにより
天下統一へ
一気に近づきます

しかし、豊臣の名の強さに
あやかろうのする者も
少なくありませんでした

今回は

秀吉による
平和な国創りと

お市の娘について
お話ししていきます

 

豊臣政権

秀吉が朝廷と関わり合っていた間も
秀吉派と家康派の小競り合いは
続いていました

なお、秀吉と家康の争いは
天下統一への策略であり

討ち取るための戦は
していません

参考記事:ドラ以外の宙人

秀吉が関白職についたという情報は
全国に知れ渡っていき
家康派の耳にも入っていきます

家康派の大名の一人が
秀吉を討ちにいくことを
家康にけしかけます

家康は返します

秀吉が天皇から
豊臣の名をつけてもらった
ということは

秀吉を気に入っている
ということ

その秀吉を討てば
朝廷の敵とみなされてしまう

そのため
もう秀吉に手を出すことは
無理であると

そして家康は小声で
秀吉を労います

さすがにございます

 

大阪城にて
家康派の大名が待つ謁見の間に
秀吉が入って来ます

ここで家康が
秀吉の関白職への就任を
祝福します

秀吉は
自分に逆らう者には容赦しない旨を
家康とその大名たちに告げます

家康は大きな声で
豊臣秀吉にお仕えする
とひれ伏します

これに大名たちも観念し
同様にひれ伏していきます

こうして秀吉は
天下人となったのでした

平和への進行

城へ戻った秀吉は
ねねと平和な国創りについて
話を進めます

秀吉が天下人となったことで
大名たちには分相応の
領土を分けていました

これにより
大名間の戦の理由がなくなったため

理由を問わず
戦をすることを禁止します

一方で
異国からの侵略を防ぐための
軍隊は保持していくこととします

これが
惣無事例そうぶじれいと呼ばれるものです

また他に
食料の面でも豊かにしていきます

畑を百姓に守ってもらうために
戦には参加させないようにします

これが刀狩と呼ばれる制度です

その後秀吉は
後陽成天皇ごようぜいてんのうが即位したことに合わせ
聚楽第じゅらくだいにて即位の祝いを盛大に行います

この際に
全国の大名を集め
惣無事例を出し

秀吉への忠誠を誓う
誓約書を出させます

こうして
豊臣政権が確立していったのです

お市の長女 茶々

聚楽第での祝いの後
秀吉のもとへ
石田三成が報告に来ます

殿にお目にかかりたい
という者を
連れてきた

というのです

秀吉は疲れており
一旦断りましたが

障子越しに不意に
挨拶の声が聞こえ
お市の娘であると言われます

秀吉は障子を開けます

ふと見たその顔が

北ノ庄城きたのしょうじょう
喉元に小刀を突き立てていた
お市にそっくりであり

秀吉は涙を流します

その者は
お市と浅井長政の間に生まれた
長女の茶々なのでした

秀吉は当時
浅井の家臣を積極的に
登用していき

お市とその子どもたちが
一緒に暮らせる環境を
整えていました

一方の茶々は
浅井家の家臣たちが思う

浅井の再興が
重くのしかかっていたのです

秀吉との子をもうけることができれば
その子どもに後を継がせることができます

これは実質
浅井の再興を意味します

まもなく茶々は
秀吉の側室となっていくのでした

淀との最初の子

信州の信長の家に
百姓の姿をしたねねが訪ねます

天下人の奥方として
城を抜け出すのも
難しくなっていたのです

信長の家には
天海和尚の姿もあり

茶々が秀吉の側室になったことを
話していたところでした

濃姫はねねを心配します

ねねは
秀吉の力の元は女であり

今の力の元は茶々であるため
秀吉は大丈夫

と答えます

信長は
秀吉が女に弱い性格であることに
ため息をつき

その力の元が
急所にならないかを
天海と一緒に心配するのでした

その後、
秀吉の側室となった茶々が懐妊し

その祝いとして
山城淀城やましろよどじょうが建てられます

そこで
秀吉の最初の子が生まれます

その子を
すて」と名付けます

城に帰ってこなくなった秀吉に
ねねが捨の祝いに淀城へ赴きます

茶々は
ねねからの丁寧な挨拶に対して
不躾な目をします

茶々は
名を「よど」に変えていました

淀は捨を抱きかかえ
この子は豊臣家の跡継ぎである
といいます

秀吉は困った顔をしながら
ねねに

この話は淀が勝手に
進めているだけだから
気にしないようにと促します

ねねは
世襲となってしまうことを心配しつつ
山城淀城を後にしていったのでした

 

今回は以上です

最後までお読みいただき
ありがとうございました